3月4日の、故久保克児副会長の三回忌が終わった後にすぐ、詩集『ある日 人は 鳥になる。』を買いました。その日はたまたま、友達と待ち合わせだったので、喫茶店で、1時間ぐらいで1回、サッと読んだんです。とりあえずね。その時に、“前作の『こころ菌』とは、ちょっと違うな”と。かなり、『法華経』というか、そっち側の感じがあるということを感じました。
その中で、自分が一番、印象に残っているのが、60ページの「出発(たびだち)」っていう詩なんです。この詩を読んだ時に、実際、在家仏教こころの会で何年か前に、『聞く 語る』を言い始めた頃、まさしく、自分はとてもやないけど、他人の前で話すことはできないって。
今もそうですけど、僕は独身なんで……。そこにでてくる話は、みんな、家族のいろんな話とか、夫婦の話とかがでてくるわけです。で、自分はひとりやから、“いやぁ、俺なんて、こんなところでしゃべれる訳がない。しゃべってもなんにもならない”と。そんな、言うたら劣等感のようなものを感じて、みんなの話を聞くと、“本当に大変やな。それから比べたら、自分なんて好き放題でやっているから、とてもやないけど、みなさんの前でしゃべることはない”というようなことをずーっと、思っていた時期があるんです。
でも、もう何年か前ですかねぇ、故久保副会長が「この自分を生きる」と言われた時があるんです。で、「この自分を生きる」って、どういうことやろう? と。俺なんて大したものでもないし、情けないことばっかやし、恥ずかしいし、“こんな自分でええのかなぁ”と、故久保副会長の言われた意味がずっとわからなかったんです。
それから、ちょっと経ってから、“「この自分を生きる」ってことは、どういうことやろう?”と考えるようになって、“ああ、そうか。自分を認めな、あかんねんな”って思ったんです。情けない自分も、恥ずかしい自分も、そういうことを全部、自分が認めることによって、そこから一歩、前向きになれるんちゃうかと、自分も思うようになったんです。故久保副会長が言われてからかなり経ってからですけどね。
だから、やっぱり、そういう意味で、僕はこの「出発(たびだち)」を読んだ時に、まさしく、もう7~8年前の自分を思い出しました。