つい、2週間ほど前のことですけど、九州で毎月2回、ホンネで自分のこころを語るという、「『聞く 語る』しあわせになる」つどいをやっているんですが、そこへ参加しました。
その時に、私自身は主人を8年前に亡くしましたので、一人で住んでいるんですが、最近、お嫁さんとのことが、“こころ”にすっごく引っかかって、なんで、私、こんなふうに自分の“こころ”がすっきりしないんだろう? って。
お嫁さんは、なにも、私になんだかんだって言ってくるわけじゃないんです。でも、そのやり方っていうか、自分の気に入らないっていう部分が、例えば、電話して、「どうしてる?」って言っても、返ってこない。
メールをちょっと練習で打ってみて、“なにか返ってくるかな?”と思って、期待して打ったのに、返ってこないとかですね。そういうのが、ひとつひとつ、なんとも納得ができないんですよね。
一人で住んでいるものですから、そういうことばっかし、一日中、考えているわけですよ。“えー、なんでだろう?”って。そんな話をお友達とかに聞くと、「いや、けっこう、うちの嫁さんもそうよ」とか、「ああ、今、世の中って、そういう時代かな」って。
“そういう時代かな”っていうのはわかるんですけど、そういうふうにサラって、私は流せないんですよ。“なんで、私は、こういう思いをせんといかんと?”ってみたいな感じですね。
そういうのがちょっと続いていまして、その『聞く 語る』のつどいの時にね、「しあわせになる」ビデオクリップを聞いて、若い男の子がお母さんとの体験を話されたんですよ。
そのお母さんと仲の良い息子さんの姿を見た時に、私は“わぁ、うらやましいな”って思ったんです。「うらやましい」って。その仲のいい親子を見て、うらやましがる自分がいるっていうのは、今まで全然、思ってもみなかったんです。
で、“うらやましいな”って思った時にね、「ああ、私は息子夫婦をうらやんでたんや」って。その時にもう、まったく、予想もしなかった感情が初めて、わかったんですね。
私は主人との生活を“自分が被害者”と思って生きてきたから、仲の良い夫婦、うちの息子夫婦を見ていたら、“うらやましかったんや”って。
だから、息子がお嫁さんと仲良くしているっていうのが、私は「あんたのお父さんはそうじゃなかった」って言いたいわけですよね。「私は大抵、苦労をしてきたよ」って。
それをいつも、自分の“こころ”に中に抱えているもんやから、ああ、これ、うらやましいっていう“こころ”があるっけ、自分が苦しまないかんのやなっていうのがわかって、“あー、うらやましい”っていうのは、ひがむ!? 「私、ひがんどんのよね」って。
簡単に、「あんな、ひがまんでいいのにね」とかって、よく言いますよね。でも、「ひがむって、どういう意味?」って問われたら、よくわからないものだから、辞書で引いてみたんですよ。そうしたらですね、「歪んだ心」って出ているんですよね。
えー、私ね、「そんなに、私の“こころ”、歪んどったっちゃろうかね」って。でも、歪んだ“こころ”で見れば、なんでも「自分は被害者」って見ますよね。だから、「私は大変だった」、「主人と大変だった」っていうふうに、自分を被害者にして、歪んだ“こころ”で自分自身を見てたんやなって。
“自分がそういうふうに発信してたんだなぁ”と思ったら、“あー、ビデオクリップを見て、その時にその話をさせてもらって、語って、すっきりして、胸につかえていたのが落ちたな”って。
だから、しあわせになります!