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自分の中に生きる父
井上晴彦
 昨年、それから一昨年と、私は“自分のこころ”の、目に見えないバリアーをフリーにさせていただいたんですね。それに至るまでは、男社会の中で揉まれてきていますから、“他人よりも一歩でも上にいたい”という思いがどっかで、でてきて……。
 在家仏教こころの会では、「父母双系の先祖供養ということで、平等を説かれていて、みんな横並びで、一緒にやっていかなければ、いけないんだ」って言いながら、私は目線が高い。
 で、そういうことに気づかせていただいて、それを2年かけて、やっと、バリアフリーになれた。バリアフリーになるとですね、何が違ってくるかというと、目線が高かった時は、“人さまの少しでも上にいたい”ということですから、人の悪いところがよく見える、で、良いところは見ない。
 ところが、ずーっと、目線が下がってきて、横並びになるとですね、人の良さが、素直に「あっ、いいねぇ。頑張っていますねぇ」ということで、拍手が送れるようになった。

 そしたらですねぇ、今年の4月、私は横浜市都筑区に住んでいるんですけれども、都筑区を全国に紹介する「都筑交流ステーション」というインターネットサイトで、「井上さんをちょっと、取り上げたい」っていう取材があったんです。
   その時にインタビュアーの方が、「井上さんが、なんで人さまのことに、これだけ一生懸命になれるのか? その大本のところを今日は聞きたいんだ」っていうことで、聞かれたんですね。
 その時に、私は背景にはこういう活動があるんだということを言って、もう一つですねえ、全然、想定外だったんですけれども、私は「どうも、父親の影響かもしれない」というふうに、ふと、口を出てしまった。出てしまったというか、そういう言い方をしたんです。
 「なぜですか?」って、突っ込まれて、「そういえば、子どもの頃、まず、父親は『人さまに後ろ指を指されるようなことはするな』。『人さまのために、役立つような人間になれ』」で、小学校に上がる頃までは、何かあると“ゴツーン”ということがきて、それがずーっと、こころの中に残っていた。
 で、私が成人になってから、じゃあ、親父とどれだけ会話ができたかっていうと、ほとんど、会話らしい会話はしてきていないんですね。父親のことは、母親を通じて、父親のことが私の頭の中に残っているわけですね。
 「お父さんは、こういうところがダメなんだよ」という、「ダメなんだよ」ということだけを聞かされて、ずーっと、育ってきていますから、父親のよい点がよく見えなかった。

 ところが、さっき、言ったように、自分の目線がずーっと、下がって、人さまの良いところが見えるようになったら、インタビューの中で、自然にそういう言葉が出て……。で、その時にインタビュアーから、「それでは、井上さんの小学生か、中学生の頃の家族全員が写っている写真を是非、載せたいので出してください」と言われたんです。
 私は家に帰って、アルバムを探したんですけれども、1枚だけ出てきたんです。それは、私が中学1年から2年になる時に、私は5人きょうだいで、一番下の妹が生まれて、しばらくの時に撮った写真が出てきたんです。
 そこに当時、41歳の父親が写っているんですけれども……、ものすごく、涙が出てきたんです。すごく、いい顔をしているんです。
 そのいい顔をしている父親の、父親が5人の子どもを育て、家族を守ってきたという、よかった点をもっと、よく見てやれなかったのかなぁと。もっと、父親と話をしてやれなかったのかなぁと、今になって、ものすごく愛おしくなって、父親が亡くなった時を5年ほど、私はもう超えましたけれども、ものすごく泣けたんです。
 で、一つひとつ、父親の行いを思い返してみると、“あー、父親は、本当に正直な生き方をしてきたな”と。その正直さを私から見ると、“きちんと、とらえて、見てやれなかったなと”。
 父親の生きざまというものが、なんか、知らないけれども、自分の今、井上晴彦という自分の頭から足の先まで、ズボっと貫き通して、生きているんだなと。なんか、そういうことをつくづく感じられて……。
 そう感じられた自分が嬉しくなると同時に、先祖供養っていうのは、こういうことなのかなと実感をして、自分のこころがフリーになることは、本当に素晴らしいことなんだなと今、感じている昨今です。
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