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母が怖かった・・・
井口嘉波
 今年の4月25日、JRの事故(福知山線脱線事故)が遭った日に母が病気で亡くなったんですね。
 私が1歳10ヵ月の時に母親は離婚しまして、私は叔母の家とか叔父の家に預けられたんです。それで6歳ぐらいから母と一緒に住みましたけども、まわりにお祖父ちゃんやお祖母ちゃん、叔父さん叔母さんがいるわけじゃなく、母との一対一の生活だったんですね。
 そんな中で、自分が反論するとか「いやだ」っていうことも一切、言えなかったんです。横座りしているだけで、「なに、その座り方は」パーン! って。足から頬からぶたれる、そういう母だったんです。その母がもうイヤで、イヤで、常に、しょっちゅう、小言、説教……。
 ご飯を食べている時から「あんたはあーや、こーや」、不良なこと何もしてないのに「不良や」と。小学校の時だったから、学校のことやようすを聞きたいんでしょうけど、それがだんだんと尋門になってくるんですよね。「あんたがこうやから、悪いんや」って。ほんで、もう、食事が喉を通らない。
 そういうことをずーっと体験してきて、結婚していく訳ですけども、母から離れていても“母が怖い”って。それで、私なりに“なんでだろう?”ということを求めていく中で、克児夫人(故久保克児副会長)が設立された「成人学級」(現在は「こころ21」)で、講師から「自分の親が生まれ育った過去を調べなさい」って、たった一言、教えていただいたんです。

 その中から「母も愛情に恵まれなかった生活していたんだな」って。母を育てた父親というのは、すごく厳しい人だったんです。母は何も言ってないのに、パーン! と殴られる、そういう状況で育ってきた。
 “だから、私にそういう育て方しかできなかったんだなぁ。致し方なかったんだな”と気づかしてもらって、幼い頃、愛情に恵まれなかった母がすごく愛おしく感じたんですね。“あぁ、可哀想な少女時代を過ごしたんだな”って。そこから母との関係がだんだん修復できて、母も自分がされてきたことをちょっとずつ、ちょっとずつ、私に話してくれたんですね。
 過去を調べるというか、自分の生い立ち、お父さん、お母さん、またお父さん、お母さんを育てたお祖父さん、お祖母さんがどういうふうに両親を育ててきたか。そこには、暴言を吐くには、暴言を吐く理由があると思うんです。

 以前でしたら、母が病気になったら“知るもんか!”って、そういう気持ちだったんです。でも、関係の修復ができて、闘病生活も一年ほどになったんですけども、その時は、病気の間でも“母が喜ぶことをさしてもらいたい”と思って、“母が喜んでくれることをしたい”と、それを心がけてきたんです。
 だけども、寿命尽きたというか……、4月25日に。その時もホントに、しっかり、意識がありまして、死ぬまで私に生き方、生きさまを教えてくれたなって。そういう母なんです。しっかりとした意識をもって、最後まで「人の役に立ちたい」、「もう一回、元気になって、人の役に立ちたい」と。これは私、遺言だと思っているんですね。
 私も母のように“人の役に少しでも立ちたい”という思いで、これからも生きていきたいと思うし、母が遺してくれた仲間、生き方を大事にしていきたいなって思います。
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